映画鑑賞やスポーツ観戦など、制約ある条件の下、強い体験を与えるものがある一方、
断片化された小さな時間に貴重な体験が宿ることがある。
『メディア・メーカーズ』の提起を起点に、
現代のコンテンツ体験の意味を改めて考える。
2012年、メディア業界の収穫のひとつに、田端信太郎氏『メディア・メーカーズ』があります。
多くの刺激的な論点を示した書物ですが、その中に印象的な箇所があります。
コンテンツ分類の視点として、「リニア←→ノンリニア」という軸を提示したところです。
リニアなコンテンツとは、初めから終わりまで一直線に連続した形でみてもらえることを想定したコンテンツのことになります。
最も「リニア」なコンテンツ形態の典型が映画です。映画はこれ以上は考えられない! というくらいに「リニア」志向に振り切られたコンテンツの形態です。……映画監督は、お客さんを映画館の中に連れ込んでしまえば、2時間という長時間にわたって「オレ様ワールド」を存分に展開することが可能です。鑑賞者は、どういう映像を、どういう順序で、どのように見せられるか? その時間軸について、全権を映画監督に預け、ある意味では物理的にも、その身を委ねざるを得ないのです。
田端氏が見事にシチュエーションを描きだしたのは、わざわざ“足を運ぶ”、“まとまった時間を拘束される”という不便と引き替えのようにして得られる、貴重で例外的なコンテンツ体験の仕方です。
むろん、類似の体験として、ライブ演奏やスポーツ観戦、そして観劇などの体験がそこに連なっています。
一方で、これとは対照的に「ノンリニア」なコンテンツ体験もまた、私たちの日常を浸していることにも気づきます。
それは“コンテンツ(消費)の片々化”、すなわち、短時間に、短いコンテンツをつまみ食いするようなスタイルを指します。
ノンリニアなコンテンツとは、順番を追うように読む(観る)必要のないコンテンツ(の構成)を意味します。
たとえば、テレビのニュース番組で、筆者がいま知りたいのが本日の天気予報であったとしても、番組はまず最初にそれを伝えてくれようとはしません。
視聴者は、全国ニュース、地方ニュースを観て(聞いて)、ようやく天気予報にたどり着くことになります。
けれど、いまでは、多くの人がリニアな順番待ちをする必要のないことを知っています。
CS 系番組では気象予報専門チャンネルがあります。また、手元のスマートフォンからピンポイントの気象予報をいつでも手にすることができます。
音楽鑑賞においてもまた、然り。ノンリニアなコンテンツ体験を促す環境が台頭していることは、改めて述べるまでもありません。
欲しい時間と場所にあって、欲しい量のコンテンツを消費できる環境が、だれにとっても急ピッチで整ってきているのです。
ここに注意したい点があります。
このノンリニアなコンテンツ体験をめぐっては、往々にして“ユーザー(読者・鑑賞者)の利便性”という点だけで議論されがちな落し穴があることです。
すなわち、コンテンツの断片化は、モバイルなど忙しい現代人の隙間時間を活用する機能によってもたらされた……というように。
先に田端氏が述べた映画鑑賞の特別さ、という視点がこれを照らし出しているといえます。
ここで特別な体験とは、わざわざシネマに足を運び、そして、2時間超という時間を拘束され、ほかでもなくその映画作品に向き合わされて得る、強い体験です。
鑑賞者にあえて不便を強いることが、その体験強度を生んでいるという側面さえあるのです。
田端信太郎氏『メディア・メーカーズ』(左)
および中村滋氏『スマートメディア』。
いずれも Amazon.co.jp より
ところで、利便性の観点だけでコンテンツ体験を見てしまうと、見落としてしまいがちの視点を教えてくれたのは、田端氏に加えて、下記の中村滋氏です。
読者がケータイでどのようにマンガを読んでいるかを調査したことがあります。
意外だったのは、マンガを読む「時間」と「場所」についての回答でした。……
いざふたをあけてみると、時間については「寝る前」、場所については「ベッドの上」がそれぞれトップでした。寝る前にベッドで読むのなら、なにもケータイである必要はないはずです。……この調査によって、読者がケータイ・コミックに求めているのは、いつでもどこでも読める手軽さではなく、
「好きなときに好きな作品だけを、少し読みたい」
ということだとわかってきました。
(中村滋「スマートメディア——新聞・テレビ・雑誌の次のかたちを考える」)
私的な体験を述べれば、最近の筆者(藤村)の就眠儀式は Kindle Paperwhite をつかんで布団に潜り込み、青空文庫などに含まれる不朽の名作をほんの数ページ読むことです。
中村氏は「好きなときに好きな作品だけを、少し読みたい」という、この種のコンテンツ体験の仕方に、同書で「パーソナルな読み方」という控えめな表現を与えています。
むろん、これを取るに足らない小さな欲求の実現と軽んじるべきではありません。
筆者(藤村)は、この「好きなときに好きな作品だけを、少し読みたい」もまた、ユーザー(読者・鑑賞者)にとっての“特別な体験”であると信じます。
田端氏が掲げたリニアなコンテンツ体験が、例外的な体験、“ハレ”の体験として、強い感動や価値を放つものであるのに対し、パーソナルな体験のほうは、他人からは見えにくい微細な日常の時間を組み直して特別な体験を生み出していると想像します。そして、その総和がいまや巨大な市場を形成しているのではないでしょうか。
小さな特別な体験に最適化するコンテンツ、メディアの形式、そしてそれを映し出すデバイスがやがて生み出されることでしょう。いやそれは、もうすでに、なのかもしれません。
(藤村)