それは記事のタイトルどおり、「個人化(personalization)」技術の進展で、過去にあったメディアをめぐる“神話”、すなわち、
- 編集者神話……「編集者は神のお告げをもたらす巫女でなければならないというもの。その巫女たちの超能力」を編集者が有する、もしくはそのように振る舞うべきであるとの期待
- コンテンツの大量散布神話……「コンテンツは、できるかぎり広範囲に散布されなければならない」という思い込み
というような、多くの出版社、放送局、そしてWebメディア全般に染みついた思考を一掃すべき段階だという、やや過激かつ骨太な主張に貫かれたものです。
実際、Big Dataのマイニングから、また、FacebookやTwitterなどのソーシャルメディアのグラフ活用まで、個々人ごとに焦点を当てるアプローチが語られる今日この頃です。
マスプロダクション・メディアから、究極の個人化メディアづくりへの転換が唱えられるのも自然の流れです。

Mediaが“Me”で始まることを忘れるな–メディアの未来は個人化の成否が握る via kwout
ところで、この論と対照的なブログ記事をさらに紹介してみましょう。
田端信太郎氏のブログTABLOGにポストされた「代官山蔦屋で雑誌黄金時代にタイムスリップ!~雑誌の本質とは」です。
楽しい投稿なので後でゆっくりお読み下さい。
筆者(藤村)が注目したいのは前掲「Mediaが“Me”で……」と対極を成す強い主張を述べる箇所です。
読者から、(今の自分にはこの記事の)「面白さ」がよく分からないのだけど、これはきっと面白いと思うべき記事が掲載されているメディアに違いない!と読者を「感染」させつつ、納得してもらうこと。読者から、「このメディアの作り手は、自分は知らないけど、この後の自分が知っておくべきと思われることを、知っているに違いない」と思って貰えることが、必須なのではないか?
要するに、編集者(メディアの作り手)は、“巫女”のような存在であるべしとの、これまた骨太な主張です。ここでオウム真理教の影響力が比喩として挙げられているのも、半分ブラックとは言え、先の「Mediaが“Me”で……」で神話、巫女という比喩を挙げているのに符合していると言えます。
ITやデジタルメディアの動向に詳しい読者なら、前者の記事が述べていることはおおむね腑に落ちることでしょう。
また、メディアの歴史や、読書好きの諸氏なら、伝説的な猛者編集者が、非デジタル時代のSteve Jobs氏のように振る舞ってできた数々の名雑誌を思い起こすことができるでしょう。そこには、読者一人ひとりについてのきめ細かい背景確認や情報収集など介入しようがない強い個性が満ちあふれていました。
さて、私は一見対極的にも見える二つの論に対して、まあまあ穏便にと、調停役を買って出たいのではありません。
面白いことに、この両者の背景に共通する現状認識があることに気づいたのです。
「Mediaが“Meで……」にはこんなくだりがあります。
自分たちの憶測が正しく、大量散布が大量のオーディエンスを釣り上げると期待する。憶測が外れると、パブリッシャーたちは声を大音量にしたり、センセーショナリズムに頼ったりする。Huffington Postがそのけたたましい見出しで成功しているのも……
この箇所は、田端氏の「代官山蔦屋で……」が以下のように述べている箇所と、どこか反響し合っていないでしょうか?
どんなに良い記事でも読んで貰えなければ、スタートラインに立てないも同然なので、必然的に、見出しで煽り、リードで煽り、という「せわしない」構造(メディアのルック&フィールとしては、「あさましい雰囲気」)に、デジタルメディアというものは、どうしても・・・なってしまいがちなのです。(これは、アナログレコードがCDになり、サビ頭の曲でないと、すぐに飛ばされてしまうので、Aメロ⇒Bメロ⇒サビ、と徐々に盛り上げる構成のポップソングが絶滅したことと同じ。)
「あさましい雰囲気」。それはいつの時代にも、どのフォーマットのメディアにもあることと受け止めたほうが良いとは思います。
しかし、その上で、デジタルメディアの時代には、過度な大音量へと陥るメディアづくりのための道が敷き詰められている一方、逆に読者の内面を見抜きそこに的確にコンテンツが届くような仕掛けは、まだまだ十分に用意されていないのだと合意しておきたいと思います。技術やそれを駆使する新しいメディア人が、そこを突破できるのか注目したいのです。
(藤村)