趣味のためのメディア隆盛期には、「もっと多く」がメディアの提供者と読者に共通する価値だった
いま、情報の過剰という“るつぼ”のなかで、
異なる原理、価値観が生じてはいないか?
情報過多・価値減衰に悩むメディア分野で、新たな事業モデルの仮説構築を試みる
本稿では、最近自分自身が構想しているメディアのありようについて、思い切って試論、私論を述べてみます。
どんなことを考えているのかと言えば、案外シンプルなことです。
「たくさん読みたがる読者に向けたメディア」、その逆に、「(たくさん)読みたくない読者に向けたメディア」。
この二つを分け、後者について考えみようということです。
本論に入る前に少々の寄り道を許して下さい。
筆者のバックグラウンドについてです。
社会人になって初めて雑誌編集に携わったのが、30年ほども前のこと。それは当時産業として活況を呈していた建設業者向け経理実務誌というニッチ媒体でした。
その後、非出版業界での会社勤めをはさんで、次に、雑誌編集に携わったのはおおよそ20年ほど前。パソコン系の出版事業を手広く営む会社での仕事でした。
そこで驚きの体験をしたことが、冒頭の二つのメディアの方向、という観点につながります。
その職場には、PC やエレクトロニクス、そしてソフトウェアについて、それがスタッフ自身が最も好きなモノ、ことがらとして熱く語るスタッフが溢れかえっていました。
“自分が最も好きなこと(得意なこと)を読者に向かって語る”ことがメディアづくりの神髄であるという雰囲気がそこにはありました。
以後、筆者自身、関わるメディアの選択には(無意識ながら)、自分が最も好き、あるいは、最も知識や体験として自信があるものという背景があり続けた気がします。
これを逆に、読者の側から見るとどう説明できるでしょうか? “好き”という関心を共通軸に、「もっと多く、存分に情報を摂取したい」との欲求がメディアを支える原動力であることを意味します。
このビジネスを方程式にすると、
ビジネスの発展(売上)= 読者の数 × コンテンツあるいは媒体数
と表されます。その変数は、「読者の数」の増大、「コンテンツあるいは媒体数」の増大であり、いずれも「数を増やす」ことが最重要の成功要因だと理解できます。
勘の鋭い読者には既におわかりのように、成長を謳歌していた時代の「雑誌」ビジネスの多くは、このような「数の増加」を基調に打ち立てられてきたのだと理解します。
さて、「好き」をテコにしたメディアビジネスが、「もっとたくさん」という原理へ純化するのは自然でした。
しかし、情報過多が深刻(?)な課題となったとすれば、「増産」原理での成長余地は限定的です。
人間は不思議なほど柔軟な存在で、「好き」が作用するケースでは、これほどに忙しい現代であっても、(情報)接触時間をジワジワと増やしています(最近の調査結果でも、メディア接触時間の増加が確かめられた)。その意味で「ジワジワ」は限界効用が逓減した結果、増産による残された成長余力を表わすものと見なければなりません。
ここに対極のメディア市場があることに気づきます。
(情報接触に)「なるべく時間を使いたくない」「たくさんは要らない」という意識が働く市場です。それは、おもに“仕事(義務)として情報に接しなければならない”分野と想定できます。あるいは役職と関わった情報ニーズであるかもしれません。時間は割きたくないが知らなければならない。
仕事上のテーマ(義務)として情報収集(接触)しなければならない領域があるのです。
その場合の方程式は、
ビジネスの発展(売上)= 読者の数 × 1/コンテンツあるいは媒体数
となるはずです。
読者にとり、いかに多すぎる情報に接触しないですませるか。あるいは限られた時間を効率的に過ごすために、いかにムダ・不要な情報を遠ざけるかなどの工夫が付加価値となります。
方程式では明示されませんが、情報接触量を減らすことで得られる読者の「可処分時間」という見えない変数がそこには含意されています。情報を選別したりまびいたりする作業がそのような変数に関わります。
「好き」が作用する媒体の事業は、読者に好まれるコンテンツをいかに数多く生産して売上をかさ上げするかという方程式で説明できたのに対し、逆方向の「情報接触を絞り込みたい」というニーズも存在しており、この場合、「コンテンツあるいは媒体の数」の増分は、読者の満足を下げるということに注意しなければなりません。
しかし、内心疑問も湧き上がってきます。「なるべくなら読みたくない、限定したい」という情報ニーズをターゲットとするメディアを構想することは逆説的ではないかと。
可能な限りページ数を絞り込む方向性の媒体を、売買することは可能でしょうか?
薄くぺらぺら。10分もあれば読み切れるようなメディアに、何もかもが無料になりたがるような時代においてそれなりの対価を設定するのには勇気が要ります。
下図をご覧下さい。ただちに筆者の仮説に入る前に、Just the News というたった数行で構成される“ニュース”サイトについて検討をしてみましょう。
日々のニュースを数行に絞り込んで届ける Just the News
米国の Max Temkin というデザイナーが個人で運営するもので、ブログのようなものかもしれません。1日1回、4〜5本のニュース記事へのリンクと、長めの論説記事(Long read)へのリンクが1本だけ掲載されるホワイトスペースが勝ったページです。
それぞれの行がリンクをなしていることさえ気づきにくいぐらいの、超ミニマルなページなものです。
この Just the News について触れた記事も紹介しておきましょう。
The Next Web 掲載「Just the News: A curated online news service that cuts out all the noise」(Just the News:あらゆるノイズを切り捨てたオンラインニュース キュレーションサービス)です。
記事は、Temkin 氏がこのようなメディア(ページ)を考案した経緯を述べています。
自分はつね日ごろ、プレーンで白いページにほんの数行の厳選されたニュースが盛られているようなものがあったらと願っていた。広告はなく、ソーシャルボタンやコメントもないような(ページだ)。ついに待ちくたびれてしまった。自分でそれを作ることに決めたんだ。
記事には補足的なことが種々述べられていますが、見ての通り。多くを語る必要もないでしょう。
いかにして、その日、人が注意を払うべき4つ、5つの話題に絞り込むかが重要なポイントです。
時間つぶし、数合わ、増量のためのゴシップネタなどは排除されています。
「ある日、重要な記事が5つに満たなければ、ポストするリンクも減らす」「読み応えある長文記事が1本しかないような日がきてもよい」とさえ Temkin 氏は述べます。
ご本人はデザイナーながらも広告バナーはおろか、メディアロゴなどまで不要物として排除してしまっています。
しかし、ここで終わっては単に“アマチュア”の余技議論となりかねません。
ここで「厳選する」「不要な情報の排除」という価値に焦点を当てることで、「なるべくなら読みたくない」「読むこと以外への可処分時間を確保したい」と望む読者に向けた逆説的なメディアの事業化が可能かと考えてみたいのです。
キュレーションだからこそ可能な新たなメディア価値観。それが厳選するということではないのか。これが筆者(藤村)の視点です。
おびただしい数で産出される「まとめ」「キュレーション」記事の数々は、実は「もっとたくさん読みたい」という文脈の上に存在しているように見えます。
「もっと絞り込みたい」という文脈の上で実現するメディアの事業モデルは構想できないでしょうか。
そこで、筆者もまた饒舌は控えつつ(笑)、事業化のための仮説を箇条書きしてみます。
- 相対的に時間が足りない(限られている)というタイミングに提供して、メディア価値が引き立つように設計する(余暇時間には、むしろ時間消費型の閲読スタイルに読者は向かうだろうから)
- “これさえ読んでおけば安心”という心理的担保を提供する。他のニュースを知らないことの心理的不安を取り除くことが肝要(たとえば、絞り込むことで失われる情報の網羅性を担保することなど)
- 上記同様、その方面の権威がピックアップ(キュレーション)した、という心理的担保を用意する
- そのニュースについてもっと詳しく知りたいという意向に備えて、詳細な記事群へとドリルダウン可能な構造を整える
- 広告や煩雑なナビゲーションを排除してビジネスモデルを組み立てるために、購読型(課金)の仕組みとする……
特にキュレーションからの収入モデル/キュレーターへの報酬モデルについては、具体的に考えるところがありますが、いささか生々しくここで述べるのは避けようと思います。
ひとつのポイントは、紹介される記事(ニュース)の価値とキュレーションの価値(への金銭的対価)をどう分離できるかというにあります。
ニュース記事を日々生成しそれを生業とするコンテンツホルダーらと次元を異にする収益モデルを生み出すこと。そして、Temkin 氏の試みの背景にあるように、良質のジャーナリズムへの尊敬が貫かれる仕組みを生み出すこととが相まってこそ、「少ないことは、豊かなこと」が実現されるはずです。
(藤村)