「さようなら、ページビュー」 Webメディアの経済モデルが変わる

広告経済の低迷と、従来型の広告を嫌うトレンドが、新たな兆候を見せている
ソーシャルメディアに象徴的なストリーム型メディアは、
堅固だったページビュー型経済モデルを揺るがせつつ
Web メディアに新たな流れをもたらすのだろうか?

「広告はクールじゃない」——。
実在する人物でもあるショーン・パーカーとそう語り合うのは、スクリーン中の Facebook CEO マーク・ザッカーバーグです(映画「ソーシャル・ネットワーク」)。
Facebook がようやく成長軌道を描きはじめた時、映画はパーカーに「(ビジネスに走って)パーティーを11時に終わらせるんじゃない」とも言わせています。
いずれも、広告ビジネス開始によって成長にブレーキがかかったり、ユーザーの離反を招くことを良しとしない西海岸的雰囲気をよく伝えるシーンがそこにあります。

出典:Flims Goes With Net「アメリカのサイバー法の権威、ローレンス・レッシグによるソーシャル・ネットワークのレビュー」

出典:Flims Goes With Net「アメリカのサイバー法の権威、ローレンス・レッシグによるソーシャル・ネットワークのレビュー」

さて、現実界で「バナー広告はリーディング体験の邪魔になっている」とのオピニオンを発するのは、“デジタルマーケティング界のロックスター”? ミッチ・ジョエル氏です(氏のバイオグラフィは → こちら)。
本稿では、同氏によるタイトルからして刺激的な論、SEO Japan blogさようなら、ページビュー」を紹介し、Web メディアをめぐる最新課題へとつなげていこうと思います。

ページビューは、ページという単位で作られた HTML ファイルが、ユーザーにアクセスされページが表示された回数を表わす指標です。
さらに言えば、1回バナー広告を表示する機会を「インプレッション」と呼びます。1つの Web ページに5つの広告掲載枠を備えていれば、1ページビュー=5インプレッションとなり、その回数と単価を乗じたものが(バナー)広告収入を決定づけます。

このページビューを根幹にすえた Web メディアの換金商材が、バナー広告(インプレション型広告)というわけです。たくさんのページビュー(人気のある Web サイトで)があれば、インプレッション単価を有する広告をたくさん表示(販売)できます。その法則がシンプルなため、この15年もの間、何度かその終焉の可能性が語られながらも、変化の速いインターネットの世界においては異例なほどこの経済モデルは長続きしてきたのです。

本稿で取り上げる「さようなら……」は、このページビューに基礎を置く経済モデルに改めて終焉を告げるものといえます。

ほとんどの場合、バナー広告はリーディング体験の邪魔になっているように感じたし(あの点滅する物体である)…… 広告プラットフォームが成熟するにつれて、1つのウェブページ上にできる限り多く詰め込むこと、もしくは、さまざまな異なるサイズを用意して、ページのそこら中にバナー広告を散りばめることが重要なことになったように思われる。 appssavvy の Eric Farkas がこう言っている:“いくつかの最も人気のあるサイトやアプリ(Facebook、Twitter、Spotify、Pandora、Instagram)を見てみると、ページビューから広告収入を得ているものは1つもない。”

「さようなら……」が指摘するページビュー型ビジネスの問題点を整理すると下記のようになります。

  1. ページビューが収入に結びつくため、読みづらいページ分割(多ページ化)などが生じる
  2. ユーザーの注意を引こうとするバナー広告が、コンテンツ周辺のそこかしこに散りばめられ、読者のリーディング体験(閲覧)を阻害する
  3. バナー広告(インプレッション型広告)自体に技術的進化があまりないまま現在に至っている
  4. バナー広告がフィットしないタイプのメディアが増えている

1.〜3. は、いずれもページビューを増やし広告インプレッションを増量することに向かってひた走ることが、ユーザー(メディアの読者)の閲覧体験を阻害する結果となっていることに結びつきます。
バナー広告は、コンテンツにひたろうとするユーザーの注意を別のほうへとそらしたり、寸断したりする要素を含んでおり、そもそもが歓迎されにくい面があります。
Google ら検索エンジンが検索連動型広告を発展させたことは、同じ広告型経済モデルながら画期的なことでした。3.に挙げた技術的デッドエンドを克服した過去唯一ともいえるモデルでした。
また、4. は、ページ型でないコンテンツが増えていることを指します。動画や自動的に最新情報を生成するようなコンテンツ、さらに後で触れるストリーム型のように、1ページ、2ページとカウントしにくい巻物のようなメディアが次々と台頭しています。

では、ページビューに堅く結びついた広告経済モデルはどう変化していくのでしょうか? これまた想定できるシナリオを整理してみます。

  1. バナー広告の技術的進化(ユーザーの関心ある分野などに広告表示を絞り込む)により、広告に対するユーザーの態度を寛容なものにしていく
  2. バナー広告などをあきらめ課金モデルに切り換えていく(cakesapp.net などに萌芽は見えている)
  3. バナー広告とは異なる形式(フォーマット)の広告を開発していく

3.について補足します。
ストリーム型メディアの勃興 Webメディアの転換点」で述べたように、ブログ、そして Facebook や Twitter に代表されるストリーム型(タイムライン型)メディアが、ソーシャルメディアを使い慣れたユーザーにとり好ましいメディア形式となっていく傾向が見えてきました。
“巻物”と上記しましたが、時間さえあれば上下方向にスクロールして無制限にコンテンツを読める形式では、ページ形式にレイアウトされていない分、そこに広告を設置しようとすれば新しい広告形式(フォーマット)が必要になります。

このように、ストリーム型(タイムライン型)メディアが勃興すれば、その表現形式にフィットした広告フォーマットに関心が高まります。
それが、「ネイティブ広告」という概念で語られ始めています。

ネイティブ広告とは何なのか? iMediaConnection によると、ネイティブ広告は、“ユーザーの消費体験にシームレスに統合するようにデザインされた広告ユニット”として定義されている。 インターネットの大部分で、私たちはネイティブ広告ユニットを見つけたことがないと思う。しかしながら、インターネット中に存在する満場一致のネイティブ広告ユニットは、理想主義の夢である。テレビでは、満場一致のユニットが“スポット”で、デジタルにおいてそれに相当するものがバナーだ。ただし、これらのユニットはネイティブではない。 SEO Japanネイティブ広告の機会とネイティブな収益化

少し抽象的に定義すれば、ネイティブ広告は、コンテンツと広告の境界線を取り払うものです。さらにいえば、そのような広告=コンテンツを、巻物状となったコンテンツストリームの中に挿入していくものを想定します。
従来から“インストリーム広告”といった形容をしてきたものを、広告の空間配置上の特性にとどまらず、広告をコンテンツ化していく動向として、Web  メディア業界は注目しているのです。
すでにメジャーな実例も出てきています。ストリーム型メディアの本流である Facebook や Twitter は、このインストリーム広告の開発に熱心です(動向は、「広告のコンテンツ化潮流は、メディア倫理を改めて浮上させる」で整理しました)。
さらには、Facebook、Twitter を追う立場の Tumblr もやはり非バナー系の広告の開発や試行を行っています(こちら を参照 )。

これらの試行が、いずれもソーシャルメディア系で取り組まれていることには、メディアの表現形式がストリーム型であることに加えて、そのソーシャル性に理由があります。
たとえば、ストリームを見ているユーザーにとって、親和性の高い人物の「いいね!」が介在したり、あるいは、ユーザー本人が、スポンサー企業やその商品のページを「いいね!」したものに絞って、コンテンツを表示するなど、“広告の(ソーシャルな)コンテンツ化”を強化できれば、それは単にストリーム上に点々と挿入されただけのインストリーム広告を脱し、ユーザーの嗜好に即したネイティブ広告へと昇華できるかもしれません。

今後、ネイティブ広告は、インストリームという形式上の特性を離れ、従来の広告が広告主からクリエイティブを渡されて掲載するだけのものと異なり、コンテンツの作り手やメディアの責任者らが自ら創造することによりコンテンツとしての“魂”を吹き込まれたもの、という定義を色濃く持つことになるのかもしれません。

過度な SEO やページ分割などが横行するように、ただひたすらなページビュー増大路線は、片や広告主自身がページビュー型経済モデルに敬意を払わなくなりつつある傾向とも相まって地盤沈下の流れにあることは間違いありません。
むろん、それでも膨大なページビューを資産化している Web メディアが早々にそこから退出するはずもないでしょう。
となれば、ソーシャル性が高い、あるいは専門性の高いコンテンツに重きを置くようなメディア群から、ネイティブ広告や課金型経済モデルへのシフトが始まることは自明です。
ソーシャルメディア、モバイル型メディアの台頭、広告経済の停滞に見合った潮流変化の大きなポイントとして、これに注視しなければならないはずです。
(藤村)