メディアの現在、そして未来 ――「同時遍在性」と「アウラ」の弁証法

本稿は、有料購読メディア「α-Synodos」の求めに応じて同Vol.274(2020年4月15日発行)に寄稿したものです。本稿の転載を認めてくれた「α-Synodos」と編集長芹沢一也氏に感謝します。
本稿は、2020年1月に脱稿しました。同年以降猛威を振るった「新型コロナウイルス」についての言及を欠くのは、そのためです。その他、時間の経過によって生じた諸々の事実の変化を認識しますが、最小限行った体裁上の修正以外、あえて発表時のまま転載することにしました。

編集部から本稿で与えられたテーマは、「メディアの現在と未来」だ。
大学卒業後の約40年にわたって、メディアになんらかのかたちでかかわり続けてきた筆者にとって、その問いは「メディアの仕事、その未来は明るいか、暗いのか」と聞こえる。
と同時に、それは「メディアの現在の課題とはなにか、それは克服可能か」との問いのようにも響く。その2点をめぐって考えてみたい。

「メディア」とはなにか?

2つの問いについて考えるに当たって、まず「メディア」とはなにか、について筆者の考えを整理しておこう。

大づかみに言えば、メディア(=Medium:媒介物)とは、人の表現を伝える手段であり、客体だ。これを表現の形式と呼ぶこともできる。その対をなすものは、表現の内容だ。こちらは無形物であり、情報そのものと呼んでもいいのだが、それが人の表現であるという区別があることからも、コンテンツ(=Content:内容)と呼び換えるのが適切だろう。表現の内容と形式が相まって、はじめて表現は人に伝わるものとなる。

表現の形式であるメディアのなすことは、表現の内容(コンテンツ)を伝達することにある。新聞、雑誌、テレビやラジオなどはその例だ。その違いは、印刷、放送、デジタル……と、それぞれがよって立つ物理的な特性にまで敷衍することができる。

ポール・ヴァレリーは、1930年代に次のように述べている注1

あらゆる芸術のうちに、もはや以前のような見方、扱い方ではすまされない、近代的認識、近代的能力の企図を免れられない物理学的部分が存している。物質も空間も時間も、二十年この方、ずっと昔からのそれらのありようとは違うものになっている。かくも大きな数々の新事態は、諸芸術の全技術を変形し、それによって創意そのものに作用を及ぼし、恐らくは、芸術の観念そのものに驚歎すべき変様を加えるところまで行くだろうということは、期して待つべきである。
定めし、最初は、作品の再生と伝達だけが影響を受ける巡合わせとなるにすぎなかろう。

ポール・ヴァレリー「同時遍在性の征服」 寺田 透・訳

ヴァレリーは、「芸術」を伝達する物理学的(物質的)部分において、大きな変化が生じていることを、彼の時代のなかに視ている。そこに、テクノロジーによる変化があると指摘しているわけだ。
もう一つ大切なことを述べている。そのようなテクノロジーによる変化が、最初は人の表現の「再生と伝達」にだけ影響を及ぼすが、いずれ「芸術の観念そのもの」を変化させるということだ。

つまり、人の表現をめぐって、形式と内容の2つは、それぞれが独立した要素ではありえず、表現の形式(メディア)の変化が、いずれは表現の内容自体にも変化をもたらすのだ。

「メディアの仕事」、その未来は明るいか?

2020年代の現代はさらに、表現をめぐるテクノロジー上の変化が加速度的に進行中だ。インターネットが、メディアとしての役割を本格的に担うようになって25年。この「短い期間」を切りとってみても、変化は顕著だ。

この間、人々のメディアに接触する時間のなかで、スマートフォンにけん引されるデジタルメディアとの接触割合が、テレビ・ラジオ・新聞・雑誌といった従来の主要なアナログメディアとの接触と並び、そして凌駕するにいたる大転換が生じようとしている注2。そもそも15年前にはスマートフォンなるものが存在もしていなかったのだから、変化は急だ。 これは表現の形式の間に生じた大きなシフトだが、総接触時間も漸増を続けている。
テクノロジーによりもたらされた変化が、結果として人々の総メディア接触時間(という市場全体)を拡大することも見えてきた(もちろん、社会および経済、ひいてはわれわれの生活の変化がそこには関与しているのだが)。その点からして、人口動態上のマイナスを織り込んだとしても、メディアの仕事の未来は「明るい」と言って良いだろう。

それがあってか、インターネットを主たる拠点とする「新興ネットメディア」の数は増え続けている。筆者が業務上関わってきたスマートフォン向けのニュースアプリ「SmartNews」は、サービスインから8年ほど経つが、提携するメディアの数は、現在も依然として増え続けている。いまやその数は約3,000以上にも及ぶ。個人レベルで運営するメディアから、新聞社や放送局のような数千名もの従業員を擁するメディアまでが含まれるが、いずれも「メディアの仕事」に成算をもって運営されている点で相違はない。この点からも、「メディアの仕事」はかつてないほどの活況を呈しているといって過言ではないのだ。

これからメディアに起きることとはなにか?

では、膨大な数へと膨れあがったメディアに、これからなにが起きるのだろうか?
メディアをめぐるテクノロジーの変化と加速は、ヴァレリー言うところの「芸術の観念そのものに驚歎すべき変様」を、ついにはもたらすはずだ。だがその前に、彼の言い方を借りるなら、「作品の再生と伝達だけが影響を受ける」ところから変化は現れてくる。

それまで短くても数十年、長ければ100年を超える歴史を培ってきた、新聞、映画、ラジオ、テレビ、そして雑誌といったアナログメディアのそれぞれ独自のありようが、いま、唐突に融合を開始している。ほんの十数年前に誕生したスマートフォンが起爆剤だ。最初は文字が、次に音声や動画像が、小さなスクリーンの上で表現されるようになり、次々にそれらが重畳するようになった。
いまはまだ、印刷紙面やアナログの映像や音声の、デジタルへの単純な置き換えに留まっている面が色濃いが、いずれは新しく命名を求める表現の形式へと昇華を果たすことだろう。

たとえば、そのような萌芽を、写真・動画共有アプリ「Instagram」の「ストーリーズ」に見てもいい注3

図1 Instagram ストーリーズ
New York Timesの例

ストーリーズは、スマートフォンの画面に特化し、写真や動画、音声、そしてテキストを重ね合わせて表示する新しい表現の形式だ。利用者は、スマートフォンをタテに持ったまま、自分の友人やあこがれのセレブたちが投稿したストーリーズ作品をタップ(選択)すれば、あとは自動再生が続く。それぞれは短尺でも、次々に提示される投稿に没入できる。投稿は、24時間後には消滅してしまう。一回性や刹那性を後押しする仕組みでもある。
投稿の制作(オーサリング)の容易さも、変化を加速する重要なポイントだ。利用者=創作者という対称性は、新しいメディアに共通するプロトコルだ。

もうひとつ、AmazonやGoogleが製品化している家庭用の「スマートスピーカー」の例も示しておこう。
いずれも利用者の音声による操作で起動し、ニュースをはじめとするさまざまな音声コンテンツを再生できる注4。利用者は、知りたいことをスピーカーに向かって口頭で訊ね、スピーカーは、利用者の関心や嗜好に応じたコンテンツを選んで、会話形式で返すことができるようになっている。AI(人工知能)によって駆動する会話機能は、徐々に人間間の自然な会話行為に近づく。「ただのラジオとなにが違うのか?」と言われそうだが、本格化すれば、遠い過去から築かれてきた、ニュースに代表されるような「1対多」型の表現の形式が、根底から変わりかねない。

このように、現在進行形のメディアをめぐるテクノロジー上の劇的な変化は、過去には存在しなかった新しいメディアを生み出そうとしている。
旧メディアにおける仕事の衰退というトレードオフの関係はあるものの、「メディアの仕事」は、そこに求められるスキルや知識の定義を大きく揺さぶりながら拡大していくことだろう。先述したように、メディアの数は増え続けており、これらの多くが、インターネットという表現の形式の上に生み落とされていることはその表れだ。

メディアをめぐる課題とは?

もちろん、問題も山積だ。メディアとの接触時間の延伸やシフトにともなって、「収入」の増大やシフトも起きてはいるが、それはいまだ限定的で不十分だ。

なにより、その収入の多くが、ごく限られた数のITプラットフォーマの広告配信テクノロジーによって占有されている、という図式が甚だしい。
図2は、国内のインターネット関連広告費の推移だ。年々成長を見せ、2019年は2兆円を突破した。だが、その多くが「運用型広告」に占められているのが見て取れるだろう。これこそがITプラットフォーマへと広告費の多くが流れ込んでいる証だ。

図2 インターネット広告費の内訳・推移

近年、インターネットでのメディアの立ち上げ、それへの広告配信などテクノロジー面の共通基盤が提供され、メディアを運営するための種々のハードルは劇的に軽減した。運用型広告もそのひとつだ。これらが零細なメディアを無数に生むという“民主化”をけん引したわけだが、一方で、この共通基盤を一気通貫的に提供するITプラットフォーマのほうは巨大化を続け、寡占的な存在となってしまった注5
数多くのメディアが誕生すれば、数多くの収入源の開発が進んで良さそうなものだが、そうはならなかった。膨大なインターネットメディアを支える収入基盤の選択肢に多様性は育まれず、ITプラットフォーマが果たす低コストで効果的に情報を拡散する機能とも相まって、運用型広告が圧倒的な成長を遂げた。ここで品質よりも量が収入の多寡を決める決定的な変数として定着していったのだ。

これが歯止めなく加速していけば、なにが起きるか。2016年のアメリカ大統領選注6やディー・エヌ・エー(DeNA)社らによる「キュレーションメディア」騒動注7を振り返れば、それは一目瞭然だ。すでに事態は極まっているのだとすれば、この先に起きるのはメディアの広範な崩壊以外にない。その一端は、米国で2019年初以降に起きた、メディアがいっせいにレイオフや投げ売り的なM&A(企業売買)に走った事象に表れている注8

このように、メディアが増え、記事の数量が膨大になったことが、その帰結としてメディアの仕事を窮乏化させ、「暗い」ものとしているともいえるのだ。

取り組めることはあるか?

打つべき手立てを、いくつかは想定できる。

第一に、最も重要な点は、読まれるべき・見られるべき良質なコンテンツを生み出そうという意欲をもつメディア、クリエーターを刺戟することだ。そのためのインセンティブを創り出すことだ。彼らを顕彰し、社会的にその知名度を高める。加えて経済的な報奨を提供する。インセンティブの対象はすべてのカテゴリーを網羅する必要はない。放置すれば絶滅することが間近い種類の表現に、焦点を当てるべきだろうし、影響を効果的に生み出せる分野から着手したい。それは、まずは社会的に良いインパクトをもたらすだろう報道や情報の分析研究などの分野からとなるだろう。そのような表現の場や機会は、大手の新聞社や放送局を除けば、従来の商業メディア(さまざまな月刊誌などが基盤だった)とともに衰退し、消滅しようとしている注9
いまや多くの人々から、報道や分析の仕事によって強いインパクトを受けた体験が忘れ去られようとしている。もし、力のこもった表現活動を駆動できるのであれば、社会にもたらすインパクト効果は小さくないはずだ。
もちろん、このような趣旨ですでにいくつもの賞が存在しているわけだが、社会的な波及力や経済的な報酬の面でもっとインパクトを高める工夫が必要だ。
米国で最も知名度の高いジャーナリズム関連の賞に「ピューリッツァー賞」がある。20程度の部門で「金メダル」授与者に1万5,000ドルが与えられているという。一授与者当たりの金額としては、少なくはないが決して多くもない。1年、2年の調査・研究期間が報われるような金額となるべきだろう。さらには受賞対象者への賞金前渡しなども模索されるべきだろう。そのためにも、特定出版社に依存せず、メディアにかかわる企業やITプラットフォーマが網羅的に資金面で参加すること。そして、独立的な視点を持つ選考委員会によって運営されていくことが求められる。

以上の良質さへのインセンティブを生み出す社会的仕組みに取り組む一方、第二に、その逆方向、つまり、低品質・デマ・意図された偽情報の流通に抗する取り組みもまた、社会化していく必要がある。
このような取り組みは、格段に難易度と副作用ともいうべき危険性が高い。「誰か」に検閲という強権を委ねてはならない。可能な限り多様な視点を糾合していくためにも、委員会および市民や学識が任意に参加し、それぞれの専門性や労力などを持ち寄れる柔軟なネットワークを、重層的に形成する必要がある。なすべきことは、流通するコンテンツについて、危険度(リスク)の高いものには、危険度とその根拠を示すラベルを付して、多方面から参照できるよう一覧化(公開データベース化)することだ。
ネットワーク化と重層的と書いたが、これにはコンテンツ流通の膨大化に広範に対応するという意味と、危険度情報を生成する側が党派的な偏りに陥るリスクをけん制する意味の両面がある。コンテンツの流通面に強い影響力と大きな収入源泉を得ているITプラットフォーマには、テクノロジー基盤の構築と経済的な負担を要請していくことになるのは当然だ。

失われた「アウラ」の奪回――メディアの未来

さて、ここまでメディアにおける物理的側面、伝達面における変化がもたらすだろう影響を考えてきた。ヴァレリーの予言は、いずれこの物理的側面が、「芸術」の本質、すなわち表現の内容そのものに変化をもたらすだろうということだった。では、それはどのようなものか、素描を試みて本論を終わりたい。
たとえば、「小さなスクリーン」という物理的な特性は、ヴァレリーに指摘されるまでもなく、それが伝達する世界観まで変えていくはずだ。また、「同時遍在性の獲得」という、現在起きている劇的な変化においても同様だ。
人々はかつてなかったほど、狭小化された世界に閉じこめられる一方、空間を隔てた情報の発信者とリアルタイムにつながれる広大な空間に立つことになったとも言える。

ヴァレリーと同時代の思想家ヴァルター・ベンヤミンは、芸術作品に特有の本質を「いま」「ここに」しかないものの一回性と説明した注10。それは圧倒的なまでの直接的体験ということだ。その意味でいえば、印刷や放送という伝達技術である(ベンヤミンはこれを「複製技術」と呼ぶのだが)メディアこそ、人々にとっての芸術作品の「いま・ここに」体験を阻む存在ということになる。
つまり、メディアとは、芸術作品を多くの人々に伝達する一方、最も重要である直接的な体験は消失させてしまうことで、芸術作品と人々とを分け隔てているものとも言える。

かりに複製技術が芸術作品のありかたに他の点でなんらの影響を与えないものであるとしても、「いま」「ここに」しかないという性格だけは、ここで完全に骨ぬきにされてしまうのである。……ここで失われてゆくものをアウラという概念でとらえ、複製技術のすすんだ時代のなかではほろびてゆくものは作品のもつアウラである、といいかえてもよい。このプロセスこそ、まさしく現代の特徴なのだ。このプロセスの重要性は、単なる芸術の分野をはるかにこえている。

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」高木久雄・高原宏平・訳

一回限りの体験の固有性にともなって立ち昇る輝きを指して「アウラ」注11というなら、メディアを通じて人々に喚起される飢渇の感情は、この失われてしまったアウラを取り返して改めて体験したいとの欲求に連なっている。
私たちのメディアをめぐっては、このような、伝え、隔てるという矛盾をはらむダイナミズム(弁証法)が存在するのだ。

未来にやってくるメディア。それは、同時遍在性を手に入れた反面、いま・ここにしか存在しないという、アウラの輝きをも取り戻そうとする試みの向こうにあると思う。その端緒については、すでに触れたとおりだ。

  1. ポール・ヴァレリー全集10巻 芸術論集 所収
  2. 海外ではIPA「Making sense. The Commercial Media Landscape」、国内では博報堂DYメディアパートナーズ「メディア定点調査2019」を参照
  3. たとえば筆者「『ストーリーズ』 新たなストーリーテリングの創造」を参照
  4. たとえばAmazon「Alexaとできること」を参照
  5. たとえば田中善一郎「『グーグル』と『FB』が支配するデジタル広告市場、驚くべき寡占化の勢いをグラフで追ってみる」を参照
  6. たとえば筆者「米国大統領選を動かした?“フェイク(偽)ニュース”とメディアはどう戦うのか」を参照
  7. たとえば 渡辺拓未「DeNA、第3者委報告書が明かした『構造問題』」を参照
  8. たとえば 平 和博「2週間で1700人規模のリストラ、米メディアで何が起きているのか」を参照
  9. たとえば、ウィキペディア「Category:日本の月刊誌(休廃刊)」を参照
  10. ヴァルター・ベンヤミン 高木久雄・他 訳『複製技術時代の芸術』所収「複製技術の時代における芸術作品」
  11. 高橋聡太「アウラ/Aura(独)

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